
2016年06月19日
琉球王国統一序章/尚巴志と李世民
さてと解体屋のおじさんです、今晩は。
さて、ブログで今日から尚巴志の序章を書こうと思いますが、その前に、唐の太宗皇帝「李世民」を少し書きたいと思います。
なぜ李世民を書くのかと言いますと、実は尚巴志は隋唐演義を理想化して行動してたのではないか?と思われる節が有るのです。
推敲一。
佐敷按司、尚思紹を「先代」として立てている。
(太宗皇帝李世民も、父親の李淵を初代とした)
推敲二。
政治は「貞観の治」を模倣。
(貞観の治とは、太宗皇帝李世民の安定期の政治を指す。中国史上最大の安定期とされ、(以下ウィキから引用)「この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い))との評がある」)
ただし、尚巴志は長男、李世民は次男。
李世民はそのままだと皇帝に即位できないため、長男を殺害しています。
中国史は良いも悪いも全て書き記すので、皇帝でも後世にこういった残虐な逸話が残るわけです。
ただ、李世民をかばうことを言えば、こうしないと自分が長男から殺される可能性が高いので。
次男にもかかわらず、ばらばらになった中国全土を自分が軍隊率いて統一してまわったわけですから。
実は悪い話を書かないの例に織田信長の話もありまして。
織田信長の弟、織田信行は、実はひょっとしたら長男だったのではないか?と疑ってます。
信長はあまりにも優秀すぎるので惣領制な戦国時代では早くから後継者とされたのでしょうが、優秀すぎて周囲の人間がついていけないんですよ。ついていける人間は、秀吉級の人物か、家康級の人物か・・・どっちもチートすぎですがな(^^;;;
ちなみに柴田勝家はいったんは信行派になったりしてました。柴田勝家クラスですら、こうですからね。
閑話休題、元の話題に戻りますと。
んー・・・尚巴志の李世民模倣説は自分の勝手な説ですので、本気にはしないでくださいませ。
ただ、沖縄にもすでに中国の史記などは流入しております。武寧王と察度王が既に冊封されておりますし、久米三六姓も沖縄に移住しておりますので。
さて、尚巴志の話に入ります。
尚巴志は佐敷按司、尚思紹の長男として生まれました。
尚巴志は31歳で佐敷按司となられました。
ちなみにこの方、背が小さかったそうです。5尺に満たないそうだから151cm未満。確かに小さいですね。
なので人々は佐敷小按司と呼んでおりました。
時の山南王は「他魯毎」。中山世鑑には記述が有りませんが、中山世譜(漢文で書かれた中山世鑑)には記述が有ります。
この山南王はおごり高ぶっており、民の負担も顧みず毎日酒宴を繰り返し、按司たちはどんどん離れていきました。
そのため「何ほどのことがあろうか?」と、名君と名高い佐敷按司、尚巴志ごと滅ぼそうと兵を起こしました。
そのため離反した按司たちも尚巴志のもとに集結、他魯毎を滅ぼします。
そして尚巴志を山南王として推戴いたしました。
このあたりなんですが、小説的な脚色できそうですよね。いろいろと面白いこと書けそうだ。
そして浦添へ進軍し支配下におさめると、・・・ゲームでいうとラスボス扱いで良いですかね?
山北王との戦いの話になるのですが、これは来週にまわします。
あさのコーヒータイム、お疲れ様です。
( ^^) _U~~
さて、ブログで今日から尚巴志の序章を書こうと思いますが、その前に、唐の太宗皇帝「李世民」を少し書きたいと思います。
なぜ李世民を書くのかと言いますと、実は尚巴志は隋唐演義を理想化して行動してたのではないか?と思われる節が有るのです。
推敲一。
佐敷按司、尚思紹を「先代」として立てている。
(太宗皇帝李世民も、父親の李淵を初代とした)
推敲二。
政治は「貞観の治」を模倣。
(貞観の治とは、太宗皇帝李世民の安定期の政治を指す。中国史上最大の安定期とされ、(以下ウィキから引用)「この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い))との評がある」)
ただし、尚巴志は長男、李世民は次男。
李世民はそのままだと皇帝に即位できないため、長男を殺害しています。
中国史は良いも悪いも全て書き記すので、皇帝でも後世にこういった残虐な逸話が残るわけです。
ただ、李世民をかばうことを言えば、こうしないと自分が長男から殺される可能性が高いので。
次男にもかかわらず、ばらばらになった中国全土を自分が軍隊率いて統一してまわったわけですから。
実は悪い話を書かないの例に織田信長の話もありまして。
織田信長の弟、織田信行は、実はひょっとしたら長男だったのではないか?と疑ってます。
信長はあまりにも優秀すぎるので惣領制な戦国時代では早くから後継者とされたのでしょうが、優秀すぎて周囲の人間がついていけないんですよ。ついていける人間は、秀吉級の人物か、家康級の人物か・・・どっちもチートすぎですがな(^^;;;
ちなみに柴田勝家はいったんは信行派になったりしてました。柴田勝家クラスですら、こうですからね。
閑話休題、元の話題に戻りますと。
んー・・・尚巴志の李世民模倣説は自分の勝手な説ですので、本気にはしないでくださいませ。
ただ、沖縄にもすでに中国の史記などは流入しております。武寧王と察度王が既に冊封されておりますし、久米三六姓も沖縄に移住しておりますので。
さて、尚巴志の話に入ります。
尚巴志は佐敷按司、尚思紹の長男として生まれました。
尚巴志は31歳で佐敷按司となられました。
ちなみにこの方、背が小さかったそうです。5尺に満たないそうだから151cm未満。確かに小さいですね。
なので人々は佐敷小按司と呼んでおりました。
時の山南王は「他魯毎」。中山世鑑には記述が有りませんが、中山世譜(漢文で書かれた中山世鑑)には記述が有ります。
この山南王はおごり高ぶっており、民の負担も顧みず毎日酒宴を繰り返し、按司たちはどんどん離れていきました。
そのため「何ほどのことがあろうか?」と、名君と名高い佐敷按司、尚巴志ごと滅ぼそうと兵を起こしました。
そのため離反した按司たちも尚巴志のもとに集結、他魯毎を滅ぼします。
そして尚巴志を山南王として推戴いたしました。
このあたりなんですが、小説的な脚色できそうですよね。いろいろと面白いこと書けそうだ。
そして浦添へ進軍し支配下におさめると、・・・ゲームでいうとラスボス扱いで良いですかね?
山北王との戦いの話になるのですが、これは来週にまわします。
あさのコーヒータイム、お疲れ様です。
( ^^) _U~~
Posted by white_yamada at 04:46│Comments(0)