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2016年05月03日

三山時代/中山王、山北王、山南王など

さてと解体屋のおじさんです、今晩は。
本日はですね、察度王、武寧王の北山と中山の話を書こうと思いましたが予定を変更して、沖縄県各地域が三山のどこに所属したか?を書いていきたいと思います。ちなみに、これらの方たち、全員「按司」(大名)です。

では、まずは中山世鑑からの引用。
「まず、山南王とは大里按司で、首里の朝廷に背いて、佐敷、知念、玉城、具志頭、東風平、島尻大里、喜屋武、摩文仁、真壁、兼城、豊見城の以上十一か国を討ち従えて、ひそかに山南王と称した」

あとで沖縄県の地図でもみてください。自力で線を引こうかな?とも思いましたが、結構細かい作業で時間かかるので止めときます。
今日は各地域の列記ということにしておきます。

さて、次は山北王です。
「山北王というのは、今帰仁按司である。これも首里の朝廷に背いて、羽地、名護、国頭、金武、伊江、伊平屋の数国を討ち従えて、山北王と自称した」

最後に中山王。
「中山というのは首里の王城である。ただ、中山王に従う国は、那覇、泊、浦添、北谷、中城、越来、読谷山、具志川、勝連、及び首里三平などの数か国であった」

んー・・・ちょいと補足しましょうね。

南山の、
佐敷、知念、玉城、具志頭、東風平、島尻大里、喜屋武、摩文仁、真壁、兼城、豊見城、大里は、現在では南城市になってます。
按司が11人もいたようです。すごいな、多い。

具志頭と東風平は八重瀬町になっております。

島尻、喜屋武、摩文仁、真壁、兼城は糸満市になっております。

南山は以上で、次は北山。

北山は、
羽地、名護、国頭、金武、伊江、伊平屋、羽地、名護は現在の名護市です。
国頭は国頭村、金武は金武町、伊江は伊江村、伊平屋は伊是名村と伊平屋村。

そして最後に中山は、
那覇、泊、首里三平等は現在の那覇市、浦添は浦添市、北谷は北谷町、中城は中城村と北中城村、越来は沖縄市の一部、読谷山は読谷村と具志川、勝連はうるま市。

んっとね。三山のうち一番強かったのは中山なのは当たり前なんですが、その次に強かったのは北山なんですよ。
そして山北王が先に中国に使いを出して朝貢貿易を始めている。

着々と手を打って勢力を拡大していったのは山北王が先なのです。

後なんですが・・・たぶん中山世鑑の誤植。山北王と中山王、明の洪武帝に進貢したときの名前が、どっちも察度(^^;;;
そして、この三山時代なのですが、沖縄にとって重要な出来事が一つあります。

明の洪武帝は、国を治める制度を作るために閩人三十六性を賜りました。
これが久米(くにんだ)三十六性です。

ただし、中山世鑑が編纂された第二尚氏の時代には少なくなっており、その時代に残っていたのは「蔡、鄭、林、梁、金」の五家だそうです。たぶん明治維新と沖縄県設置の時に、久米三十六世の子孫も日本風の名字になっているかと思います。

ちなみに自分の立ち位置ですが、中国人でも韓国人でも、日本に帰化したいというなら、帰化させてあげるべきだと思います。
ただし、条件が有ります。それは日本に忠誠を尽くすこと。

日本人は優しいので、帰化したいといったら何の疑いもなく受け入れますが、受け入れた挙句に反日行動されても困ります。なので、最低限の礼儀として日本文化の尊重などを義務づける。
そういったことを帰化するときに義務付けるように求める。

日本は良い意味でも悪い意味でも「大人」です。大人には包容力も求められないといけない、そう思うわけです。
さてと、今日は長文になってしまいました。

これにて今日は失礼します。
朝のコーヒータイム、お疲れ様です。
( ^^) _U~~


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Posted by white_yamada at 03:58│Comments(0)歴史
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