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2017年11月19日

内間から首里への金丸「宝位に昇る」編

朝早く目が覚めました。解体屋のおじさんです、こんばんは。
今日はですね、内間に隠遁した金丸のその後を書きたいと思いますが。

と言いますか、尚徳王の悪口ばかり書いてます、中山世鑑(^^;; 
まあ、前の王が悪逆だと宣伝しないと、簒奪の正当化は出来ないですからね(汗)「前の王が悪逆」という設定は、なんと殷周革命の時代からあります。紀元前1046年まで殷は存在しましたから、ざっと3000年前・・・西暦にすら入ってない・・・(^^;;

中山世鑑から記述を少し引用しますと・・・

「鷲鳳は伏しかくれ、鴟鴞がかけめぐる」
「「いやしい愚か者の地位が高くなって世に知られ、へつらうものが志を得た」とは、不正不詳の心卑しき者が世にときめいて、高位高官にのぼるということである」

あー、いいや。全部悪口しか書いてない上に漢字を探しているだけで時間かかるので、このあたりにしときます。常用じゃない漢字ばかりなので、IMEパッドでマウスで書くしかないのね(^^;;

ラストに一つだけ引用。
「「世人は伯夷は貪欲で、盗跖は無欲だという」とは、国を譲った伯夷を汚らわしきものと言い、秦楚時代の大泥棒盗跖や荘蹻を正直者といっているのである」

こんな感じで書きたい放題書いてますね。
ですが、その尚徳王も30を待たずして1469年に亡くなります。29歳でした。(暗殺されたかどうかは不明)

時の三公九郷たちは幼少の世子を即位させようとしますが・・・
・・・金丸のクーデターだろ。タイミングばっちりじゃねーか(--;;;(←注、地の文です(笑))
群臣たちが会議しているところに・・・引用に入ります。

「何処からともなく現れた白髪の老人が進み出て言った。
「先王尚徳は自暴自棄のもので、先祖の労苦をも忘れて、夏の桀王の酒池肉林のように楽しみを極め、民を虐げることは殷の紂王のように人民から多くの租税を取り立てて、宝物を鹿台蓄えたのと変わらない。これによって民は尚徳の治世が終わることを心から願ってた。尚徳は今、自滅したのだ。天道は悪を憎んで善に味方する習わしだから、早く世子を殺して聖徳の御鎖側を国王に推戴し、国家を安寧にしようではないか」」
群臣は一応に応諾(汗)世子が殺されます。第一尚氏は滅亡しました。

後世にはこの言葉が残されております。
「「物呉(ものく)ゆすど我御主(わがうすう)、内間御鎖(うちまうざし)ど我御主」」

少し話がそれますが、第一尚氏の墓は勃興の地の佐敷以外にも、いくつかあるみたいです。いまパラパラと調べたら読谷とか、そのほかいくつか。金丸のクーデター時に、墓が燃やされる可能性があるとのことで移されたとのこと。あとで詳しく調べます。

最初は固辞した金丸も、やがては群臣の説得に応じて許諾。宝位に昇ります。「尚円王」の誕生です。
そして聞得大君から神託を受けました。

「金丸アンジオスエ末続ノ王ニセイ」と授かりました。

さて、このクーデター時は1469年です。応仁の乱は1467年からスタート。
つまり、日本はまだ戦国時代初期でして、信長も秀吉も家康も生まれておりません。

薩摩はもともと米がとれにくい土地です。火山灰が多くて米がとりにくい。なのでサツマイモが入ってくる前はお茶を栽培しておりました。ですがお茶ではお腹は満たないので、交易で何とかしのいでおりました。そこに、豊臣政権の時に一人の官僚が派遣されて財政再建を行うことになりました。

当然、交易の記録や異国の歴史なども少しは触れたのでしょうね。金丸という男が護佐丸を倒し、阿麻和利を倒し、群臣から推戴されて王になったという事も知ることは有ったでしょう。彼は、ひょっとしたらこう思ったかもしれません。

「護佐丸は徳川家康だ、福島正則は阿麻和利だ。金丸にできて私にできないという事があろうか?」

そう、この官僚の男の名前は石田三成。

阿麻和利、護佐丸の乱を全国規模に拡大したら、それは「関ケ原」という戦いの名前にならないか?と、筆者は推測して本日の筆は止めたいと思います。

長々と読んでくださいましてありがとうございました。
朝のコーヒータイムに入ります。

( ^^) _U~~



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Posted by white_yamada at 06:54│Comments(0)歴史
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