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2014年12月14日

応仁の乱から戦国へと・・・足利義政編2

さてと解体屋のおじさんです、こんにちは。
今日は足利義政の功罪の罪に関して述べたいと思います。

即位当初のころは征夷大将軍としての職務を全うしていたんですけどね。
でも、この方は文化人としての側面が強いので・・・

だから自分は日本版「徽宗皇帝」とか呼んだりしているわけです。
ああ、妻の日野富子も勝手に呼び名つけてますよ。こっちは登極してない「武則天(則天武后)」。

実は、のちの信長、秀吉、家康も勝手に呼び名つけてますけど、ま、それは安土桃山に突入してから書きたいと思います。

さて、応仁の乱の話ですが・・・

足利義政は即位当初は積極的に動いて、社会のシステムが惣領制なので家督あらそいが結構あちらこちらで起こっていたわけです。そこを仲介していったわけですが、やがて疲れてきたんでしょうかね。征夷大将軍を引退したいと思い始めてきたわけです。

でも、そのころはまだ、足利義政には男児が生まれてないので出家していた弟を還俗(坊さんから一般人に戻す)して後継者として認定したわけです。でも、その弟「義視」も兄に男児が生まれたらどうするのか?家督争いになるじゃないか?と詰問したので、

というわけで有力な守護大名に後見人として名を連ねてもらって(連名)弟に譲ると約束したわけです。
後見人の名前は「細川勝元」。

ところが、義視の予測通り、男児がこの後になって誕生してしまいましたので・・・妻の日野富子は義政に「なんで義視に継がせるのよ、自分の子がかわいくないの?」と、毎日詰問する羽目になったわけです。

ちなみに、このころはまだ、「日野富子」は普通です。・・・いや、この方もどんどん怪物になっていくので・・・(^^;;;
話しが変わりました。元に戻しますと、

というわけで義視側に有力守護大名が付いているので、日野富子も別の有力守護大名に後見人になってもらう事にしたわけです。
名前は「山名宗全」。細川勝元のライバルです。

・・・一瞬即発の事態へと進んでいきますが、えっとね。これは、応仁の乱という戦争に至る前に解決できたんですよ。
ようは足利義政が「約束を守る」「約束を守らない」どっちかを「決断」すれば話は終了なのです。

約束を守らなければ義視は相当ごねるはずですが、ま、でも、そこは何とかなる。最初からそういう懸念は義視ももってたし。
最悪「殺す」ということだってできます。征夷大将軍なんだから。

でも、何もしなかったので・・・ごめん、ものすごいきつい言い方なんですけど、人ひとりの命のために日本全国が戦争になるか、人ひとりの命をとってお終いにするのと、どっちかしかとらなくてはならない、どっちを取るか?という究極の選択を選ばなくてはならない時、

政治家なら人ひとりの命を選ばなくてはならないのです。泣いて馬謖を切る、は政治家になるなら出来ないといけない。

しかも義政の場合は「説得するのが面倒だ」っていうことで放っておいただけですから・・・

文化的なところは為政者の中でトップクラスの能力なのに、政治は全く駄目な方が征夷大将軍になってしまったわけです。公家ならよかったのになあ・・・(^^;;

そしてwikiから抜粋/文正の政変。

「文正元年(1466年)7月23日、突然義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。8月25日には越前・尾張・遠江守護職も与えている。義廉と縁戚関係にあった宗全は一色義直や土岐成頼らと共に義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放、暗殺を図ったことから義視の後見人である勝元は宗全と協力して9月6日に貞親を近江に追放(文正の政変)、政変に巻き込まれた真蘂、義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。14日に家督は義廉に戻された。」

次は御霊合戦。これもwikiから抜粋

「文正元年12月、宗全の支援をうけた義就は突如大軍を率いて上洛し、千本地蔵院に陣取った。文正2年1月2日(1467年2月6日)、宗全に懐柔された義政が、当時管領職にあった政長や、細川勝元に断ることなく、将軍邸の室町亭に義就を招いた。追い討ちをかけるように義政は正月恒例の管領邸への「御成」を中止し、3日後の5日に義就が宗全邸で開いた酒宴に出席、その席で義政は義就の畠山氏総領を認め、政長に春日万里小路の屋敷の明け渡しを要求させる。政長は反発して管領を辞任し、後任に山名派の斯波義廉が就任した。
勝元は花の御所を占拠して義政から義就追討令を出させようとするが、富子が事前に察知して宗全に情報を漏らしたため失敗した。政局を有利に運んだ宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町亭を囲み義政に政長や勝元らの追放を願い出た。義政は勝元の追放は認めなかったが、諸大名が一方に加担しないことを条件に義就による政長への攻撃を認めた。
1月18日(2月22日)、政長は無防備であった自邸に火を放つと兵を率いて上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷いた。一方義就は後土御門天皇や後花園上皇、伏見宮貞常親王を一つ車に御乗せして室町亭に避難させた[12]。義政は畠山の私闘への関わりを禁じるが、宗全や斯波義廉、山名政豊(宗全の孫)、朝倉孝景らは義就に加勢した。一方勝元は義政の命令に従って援軍を出さなかった。このため勝元は「弓矢の道」に背いたと激しい非難を受けた[13]。
御霊社は竹林に囲まれ、西には細川が流れ、南には相国寺の堀が位置した。義就側は釈迦堂から出兵して政長を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけ、自害を装って逃走した。勝元邸に匿われたと言われる。御霊合戦は畠山の私闘とされたが、宗全が細川派を排斥しようとした事実上のクーデターであった。
室町亭が山名軍に占拠されたために、勝元は形式上は幕府中枢から排除された。だが、勝元は京都に留まり続けただけでなく、非常事態を口実に細川京兆家の当主として独自に軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判などを自派の大名や国人を行った(これらは本来は管領の職務である)[14]。」

そして大乱前夜から応仁の乱。これもwikiから抜粋。

「御霊合戦の後、勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させるなど緊張が高まった。3月5日には元号が文正から応仁に改元された。4月になると、細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。京都では細川方の兵が宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。5月には勝元派である元播磨守護家の赤松政則が播磨へ侵攻し、山名氏から播磨を奪還した。また武田信賢、細川成之らが若狭の一色氏の領地へ侵攻し、義敏は越前へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も一色領国の伊勢を攻撃している。
5月26日には室町亭の西隣にある一色義直の屋敷近郊の正実坊を成身院光宣が、実相院を武田信賢が占拠、続いて武田信賢・細川成之の軍が義直の屋敷を襲撃し、義直は直前に脱出、屋敷は焼き払われ京都での戦いが始まった(上京の戦い)。勝元は匿っていた政長を含む全国の同盟者に呼びかける一方、室町亭を押さえ戦火から保護するという名目で将軍らを確保、勝元は自邸今出川邸に本陣を置いた。室町亭を奪還した勝元らは西軍方に就いた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には政所執事代の伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された[15]。
片や宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。西軍は管領斯波義廉の管領下知状により指令を行っていた[16]。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。兵力は『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されているが、誇張があるという指摘もされている。
京都に集結した諸将は北陸、信越、東海と九州の筑前、豊後、豊前が大半であった。地理的には、細川氏一族が畿内と四国の守護を務めていたことに加えその近隣地域にも自派の守護を配置していたため、東軍が優位を占めていた。西軍は山名氏を始め、細川氏とその同盟勢力の台頭に警戒感を強める地方の勢力が参加していた。このため西軍には、義政の側近でありながら武田信賢との確執から西軍に奔った一色義直や六角高頼・土岐成頼のように成り行きで参加したものも多く、その統率には不安が残されていた。
一方、関東や東北、九州南部などの地域は既に中央の統制から離れて各地域で有力武家間の大規模な紛争が発生しており、中央の大乱とは別に戦乱状態に突入していた(関東については享徳の乱を参照)。」


1人の政治家が「決断」という大切な仕事をしないで放っておいた結果、有力守護大名は二派に分裂して大炎上してしまった。
社会のシステムも惣領制(優秀なものが全部継ぐ、ただし何が優秀かの基準は無し)だから、火に油を注いでいる。これが応仁の乱の真相です。

そして時代は戦国へと突入していきます。有力な守護大名もこの乱で力を失い、守護代などの国人たちがちからをつけていきますので。
でも、その話は後日に。

朝のコーヒータイムにします。お疲れ様です。( ^^) _U~~




Posted by white_yamada at 04:34│Comments(1)
この記事へのコメント
すさまじいですね。

しかし・・・

よく調べて書かれましたね。

脱帽です。
Posted by おーちゃん at 2014年12月14日 06:24
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